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  •  第1回フォークジャンボリー 出演者
五つの赤い風船 67年に西岡たかしをリーダーに活動を開始した「五つの赤い風船」は69年2月高田渡とのカップリングLPでデビューしたが、同年5月にビクターからシングルで発売された「遠い世界に」が大ヒットした。 69年のフォークジャンボリー時にはその余韻を買ってまさに最初の絶頂期であり、残された音源からもそれを窺い知ることができる。
当時のメンバーは西岡のほかに、藤原秀子(Vo)、中川砂人(g,vo)、長野隆(b,vo)であったが、同年中川が西岡とのトラブルにより脱退してしまうため、このメンバーでの演奏はあまり残されておらず貴重である。
岩井宏 京都フォークシーンの草創紀からバンジョープレイヤーとして活躍。68年からは高田渡のサイドメンとして数々のステージをこなしており、この第1回のジャンボリーの時期は二人のコンビネーションが一番こなれていた時期であった。
70年からはアート音楽出版勤務となり、URCからのアルバムのディレクターとして多くの録音を手がけたが72年に退社。翌年ベルウッドから唯一のソロアルバムを発表した後も演奏活動を続けていたが2000年に残念ながら死去。
遠藤賢司 68年ごろから活動を開始した遠藤は1969年に東芝からシングル「ほんとだよ」でレコードデビュー。
URCからのアルバムデビューは翌年の4月になるのでこの第1回フォークジャンボリーの時期はちょうどその間の期間になる。
幻想的な歌とシタールを思わせる独特のギター奏法で(良く変則チューニングと書かれることも多いが,、実際はレギュラーチューニングでコンパウンドゲージを張るこ とによってあのサウンドが生み出されていたようである。)注目を集めていたが、この時期はステージでお香をたいたり、あぐらをかいて演奏したりと後の時期と比べても独特の暗さと閉塞感を感じさせるものがあった。
岡林信康 68年にデビュー後「山谷ブルース」がヒットし一躍フォーク界の注目を集め一時期は「フォークの神様」とまで言われた岡林であるが、この時期は労音を中心とした非常に過密 なスケジュールのため体力的にも精神的にも疲弊しつつあった時期でもあった。(同年末に失踪事件をおこしている。)
この第1回のジャンボリーはそういった面を感じさせない非常に充実した歌を聴かせている。客の心をつかむ巧みなMCも実に見事である。
上條恒彦 1958年に長野から上京後、数々の職業を転々としていた上條であるが、1964年に労音に勤務したことから歌手としてデビューするきっかけを作ることになる。 卓越した歌唱力で人気を集めつつあった時期でこのジャンボリーへの参加も労音からの関係と思われるが、残念ながらこのステージでの録音は2011年現在まで発表されていない。
この後上條は71年に六文銭との「出発の歌」や72年の「誰かが風の中で」の大ヒットを生むことになる。
ジャックス 早川義夫を中心として結成されたジャックスは68年に東芝エキスプレスから「ジャックスの世界」でアルバムデビュー。(それ以前にタクトからシングル の発売あり。)
呪術的な歌とサイケデリックな演奏で一部から熱狂的な支持を集めていたが、68年末のリードギターの水橋春夫の脱退後に徐々に失速、ドラムに角田ヒロを加え活動を続けていたが結局この69年のジャンボリーが最後のステージとなった。
(残念ながらこのステージでの演奏はテープに残されていなかったようだ。)
高石事務所に入っていたため高石友也らURC系のアーティストのバッキングを務めることも多かった。
高石友也 立教大学をドロップアウト後、大阪へ流れつき66年ごろから活動を開始していた高石であるが、68年に「受験生ブルース」が大ヒット、一躍関西フォークシーンの リーダーとしてマスコミの注目を浴びることとなった。
その後も音楽舎の母体になる高石事務所を立ち上げ、URCの設立にも関わったがあくまでアドバイザーとしての立場に止まり自身のURCからのレコードはシングル1枚しか発売していない。
69年のこの時期は過密なコンサートスケジュール、フォークゲリラとの論争、自作曲を重視する世間の風潮とあくまで良い曲の紹介者としての立場を重視する自分との葛藤、台頭する新しい世代からの追い上げなど問題点が徐々にあらわになりつつあった激動期であった。
この年の年末、岡林の失踪と同調するかのように高石もアメリカに放浪の旅に出ることになる。
高田渡 68年の京都でのフォークキャンプで自作の「自衛隊に入ろう」を歌って注目を浴びた高田はその後高石事務所に入り、翌69年の2月に五つの赤い風船とのカップリングアルバ ムでデビュー。
この年はこのジャンボリーでも歌われた数枚のシングルとファーストアルバムの発売、京都への移住などまさに乗りに乗っていた時期であった。 演奏も岩井宏とのコンビネーションも抜群で後の時期には感じられないスピード感があり、歌も社会性が高い曲が多く、やはり若くて元気のある時期だったのであろう。
中川五郎 高校生だった67年ごろから人前で歌うことが多くなった中川は「受験生ブルース」「主婦のブルース」「殺し屋のブルース」などすぐれたプロテストソングを生み出すが、逆にそれが足かせにもなって一時的に歌が作れなくなるスランプに陥る。
70年以降は翻訳家、音楽評論家としての活動がメインとなっていくが、ロックバンドを作ったりと一貫して音楽活動も継続し、何枚かのアルバムも発表している。