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  •  第2回フォークジャンボリー 出演者
赤い鳥 1969年4月に結成された「赤い鳥」は後藤悦次郎(g)、大川茂(b)、山本俊彦(g)、新居潤子(vo)、平山泰代(vo)の5人、同年第3回ライト・ミュージック・コンテストで優勝したのをきっかけに注目を浴びた。
当初から海外のポップスを高度なハーモニーテクニックで歌いこなすような実力と民謡を取り上げるような社会派的な側面の両方を持っていたグループであったが、69年10月にURCからシングル「お父帰れや / 竹田の子守唄」を発表しつつ、翌年村井邦彦のプロデュースで イギリス録音のアルバムを発表するような幅広さからもそれが伺えるだろう。
70年のフォークジャンボリーへの出演は人脈的に関西フォークと深いつながりを持つ彼らなら当然と言えば当然なのだが、なぜか写真・音源・映像など一切の資料が残されていないのは不思議ではある。
時期的には日本コロムビア配給で設立間もないアルファレコードから6月にファースト・アルバム「Fly With Red Birds」を発表した時期と10月に配給を東芝に代えてセカンド「赤い鳥」を出すちょうど間になる。
アテンション・プリーズ 後にアーリータイムス・ストリング・バンド、ラストショウで活躍するバンジョー、スチールギターなどのマルチプレーヤー、村上律が在籍していた奈良のグループ。(前身はアップル・パミスでメンバーであった東祥高が脱退し五つの赤い風船に移籍したのをきっかけに改名)
70年のジャンボリーに参加してキングからのアルバムに「南京虫の唄」と「こもりうた」の2曲が収録されている。
浅川マキ 残念ながら2010年の1月に亡くなってしまったが、実に40年以上に渡りアンダーグランドシーンで活動を続けたシンガー。
イメージからするとフォークジャンボリーへの参加は意外なような気もするが、70年と71年の2回連続で出演している。
両年とも音源は現在まで公開されていないが、70年は記録映画「だからここへ来た」に「夜が明けたら」の演奏とインタビューシーンが収録されている。
70年は9月に東芝からファーストアルバムが発売になっており、ジャンボリーの時には「夜が明けたら」「ちっちゃな時から」の2枚のシングルしかリリースされていなかったが、すでに観客の認知度はかなりのものがあった。
五つの赤い風船 前年に引き続き参加した風船は中川イサトが脱退し、東祥高が加入してのステージであったが、すでにかなりの数のライブをこなし4人のコンビネーションも 固まりつつあった時期であった。
当日はヴォーカルの藤原秀子の体調が思わしくなかったようであるが、それをカバーするような西岡たかしの頑張りが目立つ好ステージであった。
遠藤賢司 この年の4月にURCから初のアルバムを発表した遠藤であったが、ちょうどこの時期はさらなる音楽性の進化を遂げつつある時期でもあった。
ジャンボリーのステージではハードなギターカッティング・アレンジの「夜汽車のブルース」を歌って観客に深い感動を与え、2回のアンコールを受けることとなった。
岡林信康 前年の12月の失踪事件からしばらく隠遁生活を送っていた岡林であったが、ボブディランの影響からロックへの転進を考えていた。
70年の春に出会った結成されたばかりのグループ「はっぴいえんど」をバックバンドに起用した岡林はこの年シーンに復帰し活発な活動を再開することになる。
このジャンボリーの時には両者のコンビネーションもこなれてきた時期で充実した歌と演奏を聴かせてくれた。 音源全曲と映像も残されているが、このフィルムは動く「はっぴいえんど」を見ることが出来るほぼ唯一のものである。                 
小野和子 現在茨城県の水戸市で「ぐぁらんどう」を営んでいる小野和子氏であるが、ジャンボリーには70年と71年の2年連続で出演している。
71年の音源は残されているが、70年については写真が残されているが音源については現在まで発表されていない。
69年には東芝から3枚のシングルが発売されているが、70年のこの時期は次にフィリップスに移籍するまでのちょうど間の時期と思われる。
加川良 高田渡に引き連れられてこのジャンボリーのステージに上がり「教訓Ⅰ」を歌って衝撃のデビューを飾った「加川良」は当時アート音楽出版の社員であった。
ここでの歌が評判になって加川は一躍フォーク界の期待の新人となる。                  
金延幸子 日本の女性シンガー・ソングライターの草分け的存在。
大阪の女子高生時代から活動を始め、高石音楽事務所に出入りするようになる。
いくつかのグループを経て69年から中川イサトらと「愚」というグループで活動するが、70年の5月に解散、この70年のジャンボリーはちょうどソロ活動を始めた時期に当たる。
72年に渡米するまでシングルとアルバムを1枚づつしか発表していなかったため、長い間幻のシンガー扱いされていたが、90年代半ばにようやく再評価の声が上がるようになり、本人も音楽活動を再開。このジャンボリーのステージの音源も収録されたレア・トラックスも98年に発売された。
ちなみに残された写真を見ると金延のほかにギターが二人バックにいるのが確認できる。(おそらく愚のメンバーであった中川イサトと瀬尾一三か?)
斉藤哲夫 70年2月にURCからシングル「悩み多きものよ」でデビューしていた斉藤は、この時期「若き哲学者」「第2の岡林」などと呼ばれ注目を浴び ていた。
どちらかというとライブパフォーマンスは得意ではなかった彼ではあるが、初めての大舞台であるこのジャンボリーではソロでステージに立っている。
杉田二郎 1967年に京都で「ジローズ」として活動を開始した杉田二郎はその後1968年からはフォークルを解散したはしだのりひこらと「シューベルツ」を結成して「風」のヒットを放つが、1970年3月にメンバーの井上博の急死を受け解散。
この70年のジャンボリーの時は後に「戦争を知らない子供たち」の大ヒットを飛ばす「(第二次)ジローズ」結成直前で「一億分の4」として出演、シューベルツ時代のアルバム「天地創造」に収録されている「白い砂」を歌っている。
ソルティシュガー 山本コータロー、池田謙吉、手塚通夫、佐藤敏夫、高橋隆の5人で結成されたソルティーシュガーは1969年12月に「ああ、大学生」でレコードデビューをしていたが ヒットせず、70年の7月に発売した「走れコータロー」で大ブレイクした。だがその直後にこの曲の作者である池田が急死してしまう。悲しみの中、メンバーを補充して活動を続けたが、このジャンボリーの出演時はまさにこの直後のステージで実に貴重な記録と言える。残念ながらこのステージでの「走れコータロー」は70年にビクターから発売された2枚組LPにしか収録されていない。