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  •  第3回フォークジャンボリー 出演者
                            
あがた森魚 この当時はすでに鈴木慶一や斉藤哲夫らと付き合いがあり、その関係でジャンボリーにも出演していたが、まだまだアマチュアに毛の生えた存在で しかなかった。
ロックとフォークのサブステージに1回ずつ「はちみつぱい」をバックで出演しているが、その時の演奏を聴いたキングレコード・プロデューサーの三浦光紀によってデビューが決まった。              
浅川マキ 前年に続いてのジャンボリーへの参加であるが、音源・映像とも資料が全く残っていないのは残念。
五輪真弓 1972年10月にアメリカ録音のアルバム「少女」でデビューを飾る五輪であるが、この1年以上前のジャンボリーにも出演していた。
音源は残されていないが、キャロル・キングなどのカバーを演奏したと伝えられる。
残された写真を見ると本人もギターを弾いていてあと一本のバックのギターは石川鷹彦が務めていたようだ。
岩井宏 この時期はURCのディレクターとしても活躍していた岩井だが、時間がある時には相変わらずバンジョー奏者として高田渡や他のURCアーティストのバッキングを務めていた。
71年のジャンボリーにおいては武蔵野タンポポ団、ソロ、高田渡、加川良との3バカトリオでの演奏と活躍を見せている。
遠藤賢司 3年連続でジャンボリー出演の遠藤だが、不思議なことに70年のステージではあれほど注目を浴びたにも関わらず、71年のステージでは メインステージではなくロック・サブステージのみの出演となっている。
時期的にはポリドールに移籍しての名盤「満足できるかな」の発売を11月に控えて乗りに乗っていた時期なので観客から「遠藤を出せ!」という声が上がってもおかしくはないのだが、そこが岡林が持つカリスマ性とは違っているところなのであろう。                 
岡林信康 3年連続の出演となった岡林であるが、この年は前年の「はっぴいえんど」とも別れ、ギターレスの「柳田ヒロ・グループ」(柳田ヒロ、戸叶京助、高中正義)をバックにしての出演となった。(このグループとは前月の日比谷野音のステージが初共演)
相変わらず岡林を求める観客が多かったジャンボリーであるが、本人はどこか醒めた感じで肝心のステージも今ひとつ印象に残るものではなかった。(特に初日のメインステージでは精彩を欠いていて良いステージではなかったと伝えられている。)                  
小野和子 2年連続で出演の彼女は前年東芝音楽工業から日本フォノグラム(フィリップス)に移籍して71年にシングル「アイ・ラブ・ユー・スーパーマン / 黒いカラス」を発売した後であった。
12月に発売されたライブLP「メッセージ・フロム・中津川」には「黒いカラス」「悲しみの足音」(メラニーのカバー)が収録されている。
また同年末に発売されたフィリップスからのセカンドシングル「足跡数えて / あかりを下さい」のジャケットにはジャンボリーでのステージの写真が使用されている。
加川良 前年のステージで歌った「教訓Ⅰ」が大きな評判を呼んだ加川良だが、この1年間の間にさらに成長を見せ岡林に代わるスターとしてメインステージでのソロでのステージ、即席のロックバンド編成でのステージ、さらにサブステージでの高田渡、岩井宏との3バカトリでのリラックスしたステージなど余裕のあるところを見せ付けた。
かまやつひろし この年の頭にスパイダースを解散してソロ活動を開始していたかまやつであったが、フォークジャンボリーにはカントリーロック・バンドの 「シティ・ライツ」をバックに出演。その時の演奏はフィリップスからのLP「メッセージ・フロム・中津川」に「気楽なものさ」「フォギーマウンテン・ブレイクダウン」「ヤー・ヤー」の3曲、1998年に東芝EMIから発売されたCDに「脱走列車」が収録された。
カルメン・マキ 「時には母のない子のように」の大ヒットを持つカルメン・マキはジャニス・ジョプリンを聴いて衝撃を受けロック転向を図っていた。
71年のこの時期はちょうどブルース・クリエイションとのコラボレーションLPの発売を9月に控えた時期で、ジャンボリーでもブルース・クリエイションとの共演という形での出演となっている。
ガロ 堀内護、日高富明、大野真澄の3人で70年に結成されたグループで71年8月のジャンボリーの時期にはまだレコードのリリースはなかったが(デビュー シングル「たんぽぽ」は10月10日発売)、すでに日比谷野音などのコンサートへの出演などで「CS&Nのコピーをやらせればピカイチ」との評価をロック ファンから得ていた。
ジャンボリーで演奏した曲の全貌は今だ判明しないが、残された3曲のライブ音源「ティーチ・ユア・チルドレン」「たんぽぽ」「オハイオ」を聴く限りではアコースティックギター中心のセットとロックバンド編成の2パターンであったことが分かる。(ほかには「青い眼のジュディ」「ユー・ドント・ハフ・トゥ・クライ」が演奏されたらしい。)
バックのメンバーについても諸説あるが、残された写真から判断するとおそらくベースは小原礼、ドラムは高橋幸宏だと思われる。
クライマックス はしだのりひこが71年に結成した「クライマックス」はデビューシングル「花嫁」が大ヒットを記録。このジャンボリーでも当然歌わ れているがその当時はライブアルバムに収録されず、1998年になってようやく音源化された。(後1曲の「綿つみの唄」は有名な「コットン・フィールズ」の日本語詞でメンバーがかつて在籍したグループ「マヨネーズ」のレパートリーでもあった。)
クライマックスは合計4枚のシングルをリリースしたが、アルバム製作中に解散と短命に終わっている。
斉藤哲夫 前年にも出演し「悩み多きものよ」で大きな評判を呼んだ斉藤だが、このジャンボリーではメインステージ、ロック&フォークのサブステージで各1回の合計3回の 出演をしている。(「俺たちの時代」には「はちみつぱい」も参加)
「若き哲学者」とも呼ばれた彼だが、それを意識しすぎたきらいもあり歌われた新曲も固さが目立ち、今ひとつ冴えが見られなかった。
ザ・サード 現在も活動を続けるヴォーカリスト、大木トオルが70年代初期に率いていたグループ「ザ・サード」は当時としては珍しく管楽器を加えたB.B キングスタイルのブルースを演奏するバンドであったが、残念ながら音源は全く残されていないのでこのジャンボリーでの音源(ジミ・ヘンドリクスの「Little Wing」)は実に貴重なものである。
ただ管楽器が入っていないため本来のスタイルではないし、大木本人もジャンボリーのステージは余り乗り気ではなかったと当時のインタビューで語っている。