• トップ  >
  •  出演者  >
  •  第3回フォークジャンボリー 出演者
シティ・ライツ 現在も活動中の1960年代後半に結成されたペダル・スティール奏者「石田新太郎」をリーダーとするカントリー・ロックバンド。
このジャンボリーのときは「かまやつひろし」のバックのほかにも単独でメインステージ及びロック・サブステージへの出演をしている。
「シティ・ライツ」は70年前半はかなり活発に活動しており、単独ではLP「亜米利加演歌」などがあり、バッキングでは「尾崎紀世彦」「土居まさる」などのレコーディングへの参加がある。
シバ 漫画家でもあり、フォーク・ブルースの第一人者であるシバ(三橋誠)は前年のフォークジャンボリーで高田渡のステージで紹介され歌を披露しているが 、その時にはそれほど評判にはならず、本格的に注目を浴びるようになったのはこの71年のジャンボリーからだったと思う。
単独でもロック・サブステージへ出演をしているが、やはり高田渡のナンバーのほか自身のレパートリーも多数演奏された「武蔵野タンポポ団」への参加によってフォークファンの認知度が高まったのは間違いない。
シュリークス 69年に早稲田のフォークソング・クラブを母体に神部和夫をリーダーとして結成されたシュリークスはメンバーチェンジを繰り返しながらコロムビアと東芝音楽工業から数枚のシングルをリリースしているが、71年8月時点では神部和夫、保坂としえ(後のイルカ)の二人組になっていた。
ジャンボリーでは8月8日のフォーク・サブステージに出演しているが、音源・写真などの記録は今のところ公表されていない。
高田渡 高田も3年連続で出演組だが、飄々として相変わらず、しかしステージングには堂々とした貫禄も付いてきた。この年はソロと3バカトリオでの出演もあったが、 やはり自ら中心になって編成したジャグバンド「武蔵野タンポポ団」が特筆すべきことであろう。
ディランⅡ 大阪の喫茶店「ディラン」から生まれた大塚まさじと永井ようのデュオであった「ディランⅡ」(本来は西岡恭蔵も加えたグループであった。) は71年7月にURCからシングル「男らしいってわかるかい」をリリースしたばかりの注目のバンドであった。
本来メインステージに登場予定だったのがステージ占拠事件により中止になってしまったため、ロック・サブステージと黒テントへの出演のみとなった。
残された音源を聴く限りではバックバンドを付けたロック編成だったようだが、メンバーは不明。
友部正人 60年代末から地元名古屋から大阪に出て演奏を始めた友部であるが、71年のこの時点でもまだレコードは発売されておらず、一般での 認知度はほとんどなかった。(URCからのデビューアルバム「大阪へやって来た」は翌72年1月の発売)
ジャンボリーでは「武蔵野タンポポ団」の一員としてビール瓶を担当。8月7日のメインステージのほか8日のメインステージ及びロック・サブステージではソロで「梅雨時のブルース」「からっ風のブルース(もしもし)」「四月の昼下がり」などを披露している。                 
都会の村人 前年参加していた「アテンション・プリーズ」がメンバーチェンジをし、村上律が抜け代わりに元「ちいさなオルフェ」の金森幸介が参加した時点で改名したのが「都会の村人」である。(西岡たかしの命名)
ジャンボリーではメインステージとフォーク・サブステージに登場。音源は「さよならもいわず」がビクターの「71全日本フォークジャンボリーライブ第2集」に収録されているが残念ながら未CD化。
Dew 元ブルース・クリエイションのヴォーカリスト、布谷文夫が結成した日本語のブルース・ロックバンド。
メンバーは布谷(vo)、大野久雄(g)、松本恒男(b)、内藤正美(ds)の4人。
残念ながらバンド自体はごく短命に終わってしまったが、圧倒的な存在感のヴォーカルとへヴィーな演奏はやはりすごい迫力である。                  
トン・フー子 2年連続でフォークジャンボリーに参加していた風船ではあるが、71年の7月に「sky」「flight」の2枚のアルバムを同時発売したばかりだったこの年はリーダーの西岡たかしがヤングジャパンの親善旅行で渡米していたため、東祥高、藤原秀子のデュオ、山本コータロー、東祥高、長野隆のグループでの参加となった。
風船のレパートリーも歌われたが、やはり今ひとつ精彩を欠き改めて西岡の存在感の大きさを感じさせることになった。
中川イサト 69年に「五つの赤い風船」を脱退後、金延幸子、松田幸一、瀬尾一三らとグループ「愚」を結成し活動をしていたが、 このジャンボリーの時期には「愚」も解散、武蔵野タンポポ団、加川良のバンド、そしてソロでの参加となった。
ソロのステージでは後にCBSソニーから発売されるソロアルバムに収録されるナンバーも披露している。
中川五郎 この時期は中川イサトらと組んだロックバンド「ヴァギナ・ファック」などの活動を開始していた中川であったが、この71年のジャンボリーでは「加川良」のステージのゲストといった形で登場、「ミー・アンド・ボビー・マギー」1曲を歌った。
なぎらけんいち 前年飛び入り参加で歌った「怪盗ゴールデンバット」で注目を浴びレコードにも収録されたなぎらではあったが、やはりまだアマチュアということで71年のジャンボリ ーには当初出演予定はなかった。
ところが初日のロック・サブステージで午後3時ごろ本来加川良と岡林信康の間に出る予定だった斉藤哲夫がプレッシャーにより出演を拒否し代わりになぎらを指名したのである。おかげで本来出る予定のなかったステージに立つことが出来、そこで歌った「万年床」「教訓Ⅱ」「一円玉」がレコードに収録されて注目を浴び、ソロデビューへのステップアップとなったということである。
のこいのこ 後にCMソングの女王として成功するシンガー。この当時はフォークシンガーとして前年に続いてのジャンボリーへの出演で8月8日のフォーク・サブステージに登場している。(残されている音源は南正人のカバー「こんなに遠く(まで)」)
野沢享司 後に72年にURCからアルバム「白昼夢」でデビューすることになる野沢もこのジャンボリーの時点ではアマチュアシンガーであった。あがた森魚、斉藤哲夫らとともに「サーカス」という不定期コンサートを主宰していたが、認められたのはこのジャンボリーへの出演から。
余談ではあるが、同じ宇都宮出身の「かしぶち哲郎」が「はちみつぱい」へ加入するきっかけを作ったのは彼である。
(オーディションの情報をかしぶちに教えたという。)