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  •  第3回フォークジャンボリー 出演者
長谷川きよし 69年に「別れのサンバ」でデビューした長谷川は伸びのある澄んだ歌声と卓越したギターテクニックで高い評価を得ていた。
この71年のジャンボリーへの参加はおそらくレコード会社の関係からだと思うが、ジャズの今田勝クインテットをバックにすばらしいステージを見せている。
ここで歌われた「もうあきてしまった」は4年後のアルバム「街角」にさらにロックっぽい演奏で収められている。
はちみつぱい 70年ごろから音楽活動を開始した鈴木慶一を中心に結成されたグループ「はちみつぱい」は当初メンバーは流動的であったが、71年夏当時は鈴木慶一、渡辺勝、本多信介の3人であった。(ヴァイオリンの武川雅寛はあがた森魚のバックで来る予定だったが、都合により不参加、代わりに鈴木慶一の弟、博文がトレーナー・クラリネットで参加している。)
ギター3人のジャンボリーでの演奏はまだまだ荒削りであったが、後の重要なレパートリー「こうもりが飛ぶころ」「煙草路地」はすでに完成していた。(「しゅろの木の下で」は音源的にはこのジャンボリーでのものしか残されていない。)
このジャンボリーへの出演がきっかけでベースの和田博巳の参加が決まり、年末までには武川雅寛、かしぶち哲郎を加えバンドとしての形態が固定されていく。
はっぴいえんど 岡林のバックを兼ねていた前年の70年とは違って71年は単独での出演となった。(初日の7日のロック・サブステージ)
11月に発売される名盤「風街ろまん」のレコーディング中という時期だったため、そこからの曲も含め非常に充実した演奏を聴かせた。
ライブでの演奏は良くないといわれるこのグループであるが、本ステージでの演奏は荒々しさと繊細さが上手くマッチングしたまさにベストというべき名演である。(2004年に発売されたボックスセットのほぼ全曲収録されている。)
日野皓正クインテット 60年代後半から日本でも大学生などを中心にモダン・ジャズやフリー・ジャズが人気を集めており、特に若手の日野皓正などは「ヒノテル・ブーム」が起こるほどの支持を得ていた。
71年のジャンボリーは規模が大きくなり、フォーク以外にもジャズやロックも取り込もうという考えもあったようだが、残念ながら全ての参加者がそれを歓迎してはおらず、このことも最終的に コンサートが中断させられてしまう遠因にもなったとも考えられる。
日野は8月8日の夜のメインステージに登場したが、残念ながら当日の写真は残されているが、音源や映像などは今だ発 表されていない。
このステージの直後に演奏した安田南の時にステージ占拠事件が起きることになる。
ブルース・クリエイション 1969年に結成されたブルース・クリエイションはメンバーチェンジは非常に多いバンドであったが、71年のこの時期は2ndアルバム「悪魔と11人の子供達」の発売直前でメンバーは竹田和夫(G)、大沢博美(Vo)、佐伯正志(B)、樋口晶之(Dr)の4人であった。
この年の末には解散して時期をおいてクリエイションに発展する訳だが、2008年5月に日比谷野音で1度だけこの4人でのブルース・クリエイションとして再結成を果たしている。              
ぼく 五つの赤い風船のオリジナルメンバーで後に上田正樹とサウス・トゥ・サウスに参加する有山じゅんじと73年にビクターのSFレーベルからLP「ゆふすげびとのうた」をリリースしている武部行正が一時期結成していたデュオ。武部が作曲した楽曲は繊細かつ幻想的で魅力的である。
このジャンボリーのほかに目立った活動記録はないので98年に東芝EMIから出た「1971フォーク・ジャンボリーVol.1」に収録された3曲の録音が唯一の記録と言える。
三上寛 71年ジャンボリーで最も注目を集めたひとり。
まず初日のメインステージのラストに出て評判を呼び、翌日の岡林信康の次という普通のアーティストなら非常に嫌がるような時間に出演し、大観衆の度肝を抜いた。
この時の模様はURCからの実況録音盤に放送禁止用語を含めほぼノーカットで収録されている。                  
ミッキー・カーティス 50年代にはロカビリー・シンガーとして60年代は「シティ・クロウズ」を経てメンバーチェンジ後「サムライ」に改名してニューロック・バンドとして海外で活動した。
70年に帰国後はおもにフリーのプロデューサーとしての活動がメインになるが、この時期は日本フォノグラムでのアーティスト契約も結びつつあった時期であったのでその関係でジャンボリーへの出演があったと思われる。
この時の演奏で残されているのはリトル・リチャードの「のっぽのサリー」1曲であるが、ニューロック風のへヴィーなアレンジになっている。バックのメンバーは不明である。
武蔵野タンポポ団 高田渡を中心に吉祥寺のぐゎらん堂に集まっていたシンガーたちのよって結成されたジャグバンド「武蔵野タンポポ団」は基本的には「71年のフォークジャンボリーで何か面白いことをやろう」 という軽い気持ちで始まったバンドであったが、ソロでも活躍するフォークミュージシャンが多数参加していたことからフォークファンの大きな注目を浴びていた。
メンバーがステージごとに違うような流動的なバンドであったが、当初の固定メンバーは高田渡(フラットマンドリン)、シバ(ギター、マウスハープ)、若林純夫(ギター、マウスハープ)、山本コータロー(ギロ)、村瀬雅美(ベース) の5人であった。ジャンボリーのメインステージではさらに中川イサト(E.ギター)、友部正人(ビールビン)、品川寿男(ギター)、岩井宏(バンジョー)、マスミ(E.ベース)が加わっている。
タンポポ団はその後も断続的にメンバーを入れ替えながらステージ活動をおこなっていたが、スタジオ録音を残さずに72年末ごろ自然消滅している。
安田南 ジャズの枠に囚われない奔放・個性的な歌唱スタイルで、1970年代に熱狂的な人気を集めたジャズシンガー。名曲「プカプカ」のモデルになった人物と言われている。
ジャンボリーでは8月8日夜のメインステージ、日野皓正クインテットの後に登場したがステージ途中で暴徒にステージ占拠されてしまう。
(この時の模様は98年に東芝EMIから発売されたライブCDのシークレット・トラックとして一部を聴くことが出来る。)
山平和彦 高校時代から地元秋田のフォークソング・クラブで活動し、70年4月にはURCからシングル「7月21日早朝に」を発売している山平だが、70年、71年のジャンボリー参加時にはまだアマチュアであった。
(71年はキングレコードのライブLPには「秋田竹刀打ち唄」が収録された。)
翌年にはベルウッドから「放送禁止歌」で本格的にデビューしている。
吉田拓郎 71年のジャンボリーを語る上で欠かすことが出来ないエピソードがフォーク・サブステージでの「人間なんて」であるが、これは様々な偶然が重なって起こった出来事だったのではないかと思われる。
もともと拓郎はすでにこの時期エレックレコードから数枚のシングルと2枚のアルバムをリリースしておりそれなりのファンをつかんではいたが、大手事務所やレコード会社の力関係で出演などが決まる傾向になりつつあったジャンボリーにとってそれほど重要な 存在とは言えなかった。(URCのアーティストたちとは音楽性も微妙に違っていた?し、聞くところによると当初は出演予定もなかったようである。)初日のメインステージもわずか3曲しか歌わせてもらえなかったことからもそれはうかがい知ることができるだろう。
2日目の午後は観客数数百人のフォーク・サブステージということで拓郎自身もリラックスし、出番前には高田渡らのステージに野次を飛ばすなどしていたが、いざ本番というときになってPAトラブルによってマイクが入らなくなってしまう。 苦肉の策で比較的構成がシンプルな「人間なんて」をやる事にしバックを務めていたミニバンドの二人にひたすら弾きまくるように指示し、現場にいた六文銭のメンバーにもサポートを頼んだ。出演者も観客も事前に酒が入り酔っていたためにこれが予想外に大きな盛り 上がりをみせることになった。(といっても数百人程度であるから身内のファンで盛り上がっている程度だったと推測されるが・・・)まあ要は酒の力を借りたお祭り騒ぎだったということである。結果的にマイクが直ってもこの曲を延々と演奏し結果的には断続的に2時間 近くにもなったという。よく文献などでは本部の商業主義を批判して云々とか小室等が「メインステージに行こう」と観客を煽り、実際にメインステージになだれ込んだ連中によってメインステージの演奏が中断したなどと書かれることも多いが、実際のところはそんな大げ さなことはなかったのではないかと思われる。
実際にデモを組んでメインステージまでいった連中もいたとは思うが数十人規模であろうし、2万人以上の観客がいるメインステージでは影響を与えようもない。なにしろ安田南のステージを占拠して中断させた連中はまた別のグループなのだから。
それでもこのフォーク・サブステージが必要以上に伝説化された理由はただひとつ。「よしだたくろう」が翌年CBSソニーへ移籍して大ブレイクすることになったからである。
乱魔堂 ブルースバンド「ブラインド・レモン・ジェファーソン」の元メンバーたちを中心に71年に結成された「乱魔堂」は洪栄龍(ギター)、松吉久雄(ボーカル)、 猿山幸夫(ベース)、矢島敏郎(ドラム)といったメンバーであった。
7月ごろから渋谷のBYGに出演し始め、「はっぴいえんど」や「はちみつぱい」などもいた事務所「風都市」にも所属していたためその関係からのジャンボリー出演になったと思われる。
翌72年にポリドールからアルバムを発表するが、そこで聴かれるウエストコースト系サウンドとは違った荒々しいブルース・ロックが演奏されているのが興味深い。
六文銭 前年に続いて参加した六文銭であるが、また恒例のメンバーチェンジがあり、小室等、原茂、及川恒平、橋本良一、四角佳子という後期の黄金メンバーであった。
この年は上條恒彦との共演で「出発の歌」の大ヒットを飛ばしている。